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羅生門

労働争議でもめる東宝から離れた黒澤は、当時大映の重役だった作家川口松太郎(かわぐちまつたろう)に企画を申し込む。
「セットは門がひとつ、塀がひとつ、後は森でロケーション」
安上がりなその企画に乗った川口は出来上がった巨大な羅生門を見て
「黒さんに一杯食わされた」と言ったそうです。

初めの脚本は橋本忍(はしもとしのぶ)が無名時代に書き上げたものだった。それは芥川龍之介の「藪の中」を脚色したもので黒澤を惹きつけるものがありました。
やがて同じ芥川龍之介の「羅生門」を加え、形が整えられます。

四人の登場人物の証言がすべて食い違う、「そうゆうワケがわからないのが人間なのだ」まさにこれこそが黒澤を惹きつけたこの映画のテーマだったのです。


大映の名カメラマン宮川一夫(みやがわかずお)と初めて組んで絵作りに没頭しました。
当時太陽を撮影することはタブーとされていましたが、宮川が木漏れ日を望遠レンズで撮影します。
コントラストの強い画面にするために巨大な鏡をを用意して太陽の反射光で撮影しました。
黒澤はいいます。「カメラは100点、100点以上だ。」

試写を観た大映の永田雅一(ながたまさいち)社長は「なんか ようわからけど高尚な写真やな」と洩らします。
公開された「羅生門」は一部インテリにウケたものの、さほど評価されることなく忘れ去られたかに思えました。が、
翌年「羅生門」はヴェネチア国際映画祭で堂々たるグランプリ(金獅子賞)を受賞します。
この受賞はノーベル賞の湯川秀樹、水泳の古橋広之進と並び戦後の打ちひしがれた日本を勇気づけた出来事として、今も語られます。

黒澤は当時不評が続き窮地に立たされていました。しかしこの時から黒澤にはゆるぎない名前が付け加えられます。
それこそが「世界のクロサワ」と言う称号なのです。
・大映京都撮影所の広場に建設された羅生門のオープンセットは面積1983平方メートル、幅32メートル、 奥行き21メートル、高さ19メートル、柱には約1.2mの巨材18本を使用。建設にかかった日数は25日間。
・羅生門の側面には長さ35メートル高さ6メートルの土塁を築き、 背景には長さ35メートル高さ4メートルのホリゾントに裏山を浮き上がらせた。
・新たに焼き上げた瓦の数は4000枚、その一つ一つに「延暦寺十七年」と年号が刻まれていた。
・暗い森の中での撮影のために鏡照明という器具を世界で初めて森に運び込む。
・木漏れ日を描写するために光明寺の木を遠慮会釈なく切り倒した。
・カメラが見え隠れするギラついた太陽を延々と追いかけて行く移動ショットは、 それまでの映画のタブーに真っ向から挑戦したモノで、三人の登場人物の心理描写とあいまって 絶妙な効果をあげた。
この技法は「黒澤明の太陽モンタージュ」と呼ばれ、後に続く映画に多大な影響を与えた。
・太陽に初めてレンズを向ける。(それまではフィルムが焼けるのでタブーだった)
・衣装は軽石でこすりグチャグチャになったものを身につけた。
・三船と森の殺陣は従来の舞いの美しさを追求せず片手で太刀を振り回し、 猛獣のような叫び声を挙げて、太刀と太刀を叩き付け合う死闘の描写に徹した。
・雨に大量の墨汁を混ぜ重い質感を出した。
・羅生門の屋根に放水装置を施して滝津瀬の如く落下する雨を表現。
・羅生門の周囲に掘った溝に水槽タンクから3tの水を一気に流し込んで豪雨の感じを出した。
・消防車3台を出動させ大量の水を使ったために近隣住宅は水不足。
・1950年ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞。日本映画が国際映画祭で受賞した初めての作品となる。
・映画祭に顔を出していたフェデリコ・フェリーニは「羅生門」を観た後、しばらく興奮が収まらず、
「すごいものを見たぞ!クロサワという日本人が作った奇跡の映画をこの目で見たんだ!」と黒澤やその映画について、 辺り構わず大声で話続け、周囲にたしなめられた。
・1982年ヴェネチア国際映画祭創立50周年記念「獅子の中の獅子」(過去のグランプリの最高位)に輝く。
・アメリカの法廷用語「ラショーモンケース」は「羅生門」が語源。